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カナダ・カルガリー大学での留学記

名古屋市立大学大学院 医学研究科 乳腺外科学分野 教授
遠山竜也

私は、学位取得直後の1996年より1999年までの2年半、カナダ・カルガリー大学に留学する機会を頂きました。カルガリー市はカナダ西部のアルバータ州第二の都市で、世界の観光地であるロッキー山脈に近く、自然と都市がうまく調和した町です。

写真1:カルガリー市の景色 (https://canada-study.net/life/より)

カルガリー市は、1988年に冬季オリンピックを開催したことでも知られ、市の内外のあちらこちらに当時使った施設が残され、現在も使われています。5月からの9月までの数か月、最高気温はせいぜい25~28℃くらいまでしか上がらず、湿度も低く、いつも気候はからっとしていて非常に快適に過ごせます。冬は札幌くらいの気温のことが多いのですが、時々北極から直接非常に冷たい寒気がやってきて一気にマイナス30℃くらいに冷え込むことがあります。ちなみに私が留学していたときの最低気温はマイナス39℃で、その日の昼間でさえ最高気温はマイナス31℃までしかあがりませんでした。こんな日に外を歩くと5分くらいでまつげが凍り付いて、まばたきするとき上下のまつげ引っかかる感じがしてとても変な感じです。

このように日本より寒いカナダでは、暖房設備は天然ガスにより完璧に整備されています。自国で天然資源が豊富に採れることから、光熱費はとても安く、オフィスビルや戸建ての家はセントラルヒーティングで1年中室温は23-25℃に保たれており、自宅の部屋や研究室では真冬でも半袖で快適に過ごすことができます(ちなみに私の住んでいたところは光熱費がすべて部屋代に込みとなっていました)。

写真2:モレーン湖(Moraine Lake)。カナダ・アルバータ州のレイク・ルイーズ近郊の氷河湖で、絶景です。カルガリー市内から車で1時間半くらいのところにあり、留学中に何度も訪れました。

カナダに行く前は、研究室の冷凍庫と同じマイナス20℃で日常の生活なんてできるのだろうかととても心配していましたが、実際にカルガリーで生活してみると、寒くてもとても快適なので、マイナス20℃の生活も「なんだ、この程度か」というのが正直な感想です。また、カルガリーは緯度が非常に高いので市内から年に何回かオーロラがみえることがあります。私も運良く部屋の窓から2回オーロラを見ることができました。

写真3:カルガリー大学の正門 (http://www.ucalgary.ca/esljapanese/uofcより)

私が所属したのは、カルガリー大学医学部生化学分子生物学に併設されているがん研究センター内にある研究室です。研究室のメインテーマは細胞周期と老化、および癌抑制遺伝子です。私は癌抑制遺伝子に関する研究を担当しました。当時の研究室内の構成は、教授1名、テクニシャン3名、ポスドク4名、大学院生4名です。

ご存じの方もいらっしゃると思いますが、ポスドクというのは、postdoctoral fellow(博士号取得後研究員)の略で、基本的に彼等は将来研究者として生活することを目指しており知識量経験量アクティビティの面で研究室の中核をなしています。給料は教授が獲得したグラントから出されるので教授はできるだけできのいい研究者をポスドクとして雇いたがり、その意味で純粋な基礎研究者ではなく普通の臨床医の私がポスドクとして採用されたのは、推薦して頂いた三浦 裕先生(現 名市大分子研分子神経生物学分野 准教授)のお陰だと思っています。この場を借りて、お礼申し上げます。

日本人は金持ちだから給料なんて出す必要はないと考えている現地の教授も少なくなく、無給の日本人留学生もいました。また、大学院生の立場はカナダを含めた北米と日本とは大きく違います。北米では大学院生は教授が獲得したグラントから給料をもらえます!日本では大学院生は大学生の延長として捉えられているのに対して、北米では研究室に貢献している研究者のたまごとして位置付けされているからでしょう。

カナダでは、通常、ひとつの研究室のなかで大学の正式な職員は教授だけで、教授以外すべてのスタッフ(ポスドク、大学院生、研究員、実験助手など)は、教授が獲得したグラントで雇われている非職員です。この点は日本とずいぶん違います。また学部全体の教授の数は非常に多く、私の所属していた生化学・分子生物学部門だけでも30人以上います。これらの教授はお互いに独立を約束されていますので、日本のピラミッド構造とは異なり、横社会とも言えます。大学のしくみが日本とは随分違いますので最初はなにがなんだかよくわかりませんでしたが徐々に理解できてきました。

写真4:Fairmont Banff Springs(フェアモント バンフ スプリングス)。カナディアンロッキーの玄関口であるリゾート地、バンフにある由緒あるホテル。バンフにはよく遊びに行きました。
(http://canadajournal.com/backnumber/1301/article_travel_1301_01.htmlより)

毎日の生活ですが、PHSを持つことも、当直もありませんから、朝から晩まで自分の研究に没頭できます。余談ですが、カナダ人が教授の研究室では時間管理その他を研究者の自主性にすっかり任せることが多いのですが(私の研究室もそうでした)、東洋人(中国人、韓国人、日本人)が教授のところでは、日本並またはそれ以上の管理を教授がしていました。

日本から留学しているある先生は中国人の教授のもとで研究生活を送っていましたが、不幸にもこの教授は超管理主義者で、毎朝出欠の点検を教授自身がしていて、たまたまその場にいないと家にまで電話が掛かってくるそうで彼はいつも嘆いていました。私の研究室は全く自由で、好きなだけ好きな時間に研究ができました。しかし、これは良い結果さえ出してくれれば過程は問わないよ、ということなので、結果が出ないときには逆に週末もすべて返上して、いいデータを出せるようにがむしゃらにがんばらなければなりません。

毎日夜遅くまで実験をがんばったにもかかわらず良い結果がでないとき、日本ならば「一生懸命がんばっているので、もう少し様子をみよう」ということになりますが、北米の場合は「時間と研究費の無駄使いをしているだけの研究者」とみられ、近いうちにクビになることもあります。私の研究室は他の研究室に比べそれほどシビアではありませんでしたが、それでも常に結果は求められました。

研究報告のスケデュールに関しては、教授とのミーティングは2週に1回、研究室内での研究報告は3ヵ月に1回、さらに約30の研究室でがん研究グループ (Cancer Biology Research Group) を作っていましたので、このグループでの研究報告と抄読会が各年1回ありました。私も、この研究報告と抄読会を担当しなければならなかったのですが、それぞれ持ち時間が1時間もありましたので準備には相当のエフォートを費やしました。

写真5:私と、ボスのProf. Karl Riabowol(中央)と実験を指導してくれたポスドクのIgor(左)。Karlの自宅でのホームパティーでの1枚。

まず、これらの発表をするとき、ポスドク、大学院生を問わず、原稿を読む人は誰もいません。留学をする前に、三浦 裕先生(前述)から、「発表原稿を読むのは日本人だけで、それだけで評価が下がる」と言われていました。そこで、私は、留学前に「絶対に原稿は読まない」と密かに心に誓っていました。留学して10ヶ月目ごろに、遂に私に持ち時間1時間のがん研究グループ (Cancer Biology Research Group)の抄読会の当番が回ってきました。抄読会と言っても、主論文だけでなく関連論文も読んで、そのトピックをわかりやすく解説するというもので、相当の準備が必要で、ランチタイムに30~40人の研究者の前で発表すると言う形式のものです。

写真7:カルガリー大学生化学部門を学外に紹介するためのスナップ写真から。私もこの紹介用の写真に入れて頂きました。

私の生まれて初めての英語の発表がこの1時間に渡る発表となってしまいました。正直、「このまま日本に逃げ帰ったらどんなに楽だろう」、と思いが頭をかすめました。でも、がんばるしかありません。まず、発表の1ヶ月半前までに、1時間分の発表原稿をすべて書き上げました、次に、同僚のカナダ人に、一語一語、発音と文法のチェックをしてもらいました。このとき、自分の覚えていた発音が随分間違っていたことに気付かされました。そして、1ヶ月前には発表原稿をすべて暗記して、発表まで練習に練習を重ねて本番に挑みました。そして、無事本番をうまくこなせました。この発表までの一連の「試練」を乗り越えたことは、私の人生にとって大きな自信となり、ひとつの「ブレークスルー」となりました。

私の英会話力ですが、留学前に半年週1回の割合で英語学校に通いましたが通わないよりまし、といった程度で特別上達もしなかったように思います。留学すれば自然になんとかなるさ、といった具合で留学生活を始めましたが、実験に没頭すればするほど英語での会話も少なくなり、半年経ってもたいして上達もしていないのに気付き慌てて週2回夜間の英語学校に通い始めました。

余談ですが、この時点で妻は半年現地の英語学校に毎日通っていましたので私よりずっと上手に英語を話していました。私の英語上達のきっかけになったのは2年目になって気の合う大学院生ふたり(カナダ人とイタリア人)が私達の研究室に入って来てからでした。彼等とは仕事以外にも食事に誘ったり誘われたりして家族ぐるみで付き合わせてもらいました。おかげで私の英語力も少し上達しました。当時の研究室のメンバーはとても国際色豊かで、日本人の私以外にイタリア人、オーストラリア人、ロシア人、中国人、マレーシア人、フランス系カナダ人、イギリス系カナダ人などから成っていて自国語なまりのいろいろな英語が聞けて楽しく過ごせました。

私は、2年半の留学生活を通して数え切れないほどの貴重な経験をさせて頂きました。このような留学の機会を与えてくださいました、藤井義敬前教授、小林俊三先生、岩瀬弘敬先生には心より感謝申し上げます。

若手の先生には、是非、留学をすることで人生の糧となるような体験をして欲しいと思っています!

写真8:自宅の居間です。暖炉付きのアパートで、快適に過ごせました。ちなみに、暖炉には特に暖房の機能はなく、観賞用です。
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