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舟橋先生の米国留学記

UCLA (University California Los Angeles) 留学記

200511月から2007年までUCLA Division of Surgeryに留学しました。西海岸でbest 1、全米でもbest 517年続けていると病院にはポスターが掲示してありました。

 

2004年に2005年からの留学が決まり、準備をしだした春ごろからアメリカに住むということが現実問題になってきました。2005年始めにSUSという学会でアメリカに行き、留学先のBossになるProf. Reberに挨拶したときもまだ先のことと現実感を欠いていたりしたものです。

 

VISA申請のためのさまざま書類を作成するのがとても厄介でしたが、何とか申請の面接にこぎつけました。VISA申請の面接は大阪のアメリカ領事館で行ったのですが、面接、英語・・・で気が重かったことを覚えています。個室に入ってあれこれ聞かれるんだろうかとか英語で答えられへんやんけ、とか考えていました。面接日には、領事館前に何人も並んでおり、駅の待合室みたいな場所に連れて行かれました。ちょうどテロの後だったためSecurityが厳しいものでした。目の前にはJRの切符売り場みたいな窓口が並んでいて、さてどこに行くことになるんだろうか?と思っていたら一番端の窓口で呼ばれました。そうです、そこが面接会場だったのです。さすがアメリカ、アバウトです。英語で名前や目的、行き先を聞かれるのですが平易な英語で安心しました。あとになって気づいたのですが窓口の下には大きく「日本語でも大丈夫」と書いてありました。これはアメリカのアバウトさに大阪が上乗せされたのか、後日アメリカで北大出身の人に聞いたら(彼は東京で面接をした)東京は厳しく、VISAの更新は憂鬱だといっていました。もし、これを読んでいる人がいましたら、面接は大阪がお奨めです()

 

日本での事務手続きのあとは、もう出発するだけです。忘れもしない、NorthWest成田発、LA行き、これからの生活を暗示させるかのごとく揺れまくりました。Cabin attendantがものも言わず急いで着席してベルトを締めるところを見ていると、この揺れは結構ヤバイ!!と感じたのをよく覚えています。LAは車社会ですので到着後はレンタカーにホテル暮らし、日本人も多く住んでいましたから日系の不動産業者に間に入  ってもらってUCLAのそばに物件を見つけました。このアパートには他にも日本人が3組ほど住んでいて後々よく   集まってはpartyを開いたりして、楽しく過ごしました。

 

生活のセットアップが終わり、いよいよ留学生活の本当のスタートです。実験室はUCLAの教授のProf. ReberBossなのですが臨床もしているため、普段の実験室のbossは日本で言う講師にあたるDr. Eibl (ドイツ人)、彼が取り仕切っていました。彼からthemeをもらい実験を進めていくのですが、今回僕に与えられたthemeは多価不飽和脂肪酸の膵癌に対する影響というものでした。Themeにしたがって実験計画を立て、すすめていくわけですが週に1Prof. Reberassistant Prof. Dr. Hinesを含めた大きなカンファがあり、ここで1週間の成果を発表するわけです。もちろん英語で説明です。データを供覧し、問題点などをdiscussionしていきます。これにはずいぶん苦労しました。こうしてω-6脂肪酸が膵癌細胞を刺激し、ω-3脂肪酸が抑制することをin vivovitroで証明し、学会発表や論文にまとめました。

 

留学している最中は無我夢中で、つらいこともありましたが今となっては懐かしく、貴重な体験ができました。LAは気候がよく、治安も悪いところとよいところがはっきりしているので比較的住みやすいところだと思います。日本人も多いし、日系のスーパーもあり、食生活にも困りません(お金は少しかかりますが・・・)。在米中は英語の勉強をかねてESL(English Second Language)という無料の学校にも通っていました。人種が雑多なためボランティアで英語を教えてくれるのです。通っていたところはビバリーヒルズ青春白書というドラマの舞台にもなったビバリーヒルズ高校でした。他にもサンタモニカやチャイナタウン、コリアタウン、そしてhighwayは無料なため週末や休みにはいろんなところに行きました。また機会がありましたら報告します。

 

もう一度LAに行きたいか?と聞かれたら、お金をもって(アメリカは資本主義の国ですから)、もちろん、と答えられる留学生活でした。

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